モノノノノノ

もやっとした時にもやっとしたことしか書きません。簡素に生活しつつ、マッチョになりたいです。

都会に住みたいと言う田舎者の欲望について。

何を隠そう田舎者の僕である。
英語圏への語学留学の際には、日本語が訛りすぎて、同じ日本人同士なのに英語も日本語も通じてるか微妙だったのも僕だ。

今のところ東京都内に身を置いたり、物への執着に勤しんだ20代を過ごしたのは、何も無い田舎で育ち、大都会に夢を見たところに起因していると思われる。

嫁も似たような感じの田舎者だ。いや、僕より田舎の人だ。

その二人が考えた野望は「山手線内に住んでみたい」と言うものである。割と田舎育ちの都内在住の人にはわかるのではないだろうか。都会の自転車通勤とかに憧れたりするのだ。しかも5分とか言う短時間限定。(田舎ではアホ程時間をかけて自転車通学したので、長時間はイヤ)

先日、かなり好条件の物件を見つけ、内覧に行ったのだが、その値段設定と狭さに愕然とした。ロケーションは問題ないのだが、パンピーサラリーマンの僕には、住めなくもないが、それだけの賃貸費を出すほどの価値を見いだせなかった。それは余りに狭いから。明らかに今住んでいるとこにあるものをすべて持っていくと、その部屋は居住スペースと言うより、物置に様変わりしそうなイメージが頭に浮かんだのだ。

ロケーションだけでなく、水周りの設備に関しても何の文句も無い物件だが、僕達は諦めることにした。

もしかすると憧れの山手線内に住めるのではと盛り上がっていた僕らは肩を落とした。僕は多すぎる所有物さえ無ければ住めたかもしれないなと思った。東京の部屋は狭い。物を減らして暮らす事はフィットするに違いない。改めて簡素な暮らしをしたいと、嫁に告げた。ちょっと理解できないと言うように軽く首を振ったヨメは「もっとお金があればもっと広いとこに住める」と言った。僕はその正論はキツイな。。と思いながら口を閉じ、苦いコーヒーを口に運んだ。

自分の怪我遍歴

「あなたは身体が弱い」彼女は僕にそう言った。男としてはそんなこと言われたら少なからずショックだ。彼女(嫁)の言うところの「身体が弱い」と言うのは、よく病気をしてしまうとかでは無く、怪我したりして、肉体、筋肉や骨の強靭さを指している。ムッとしながらも、先日嫁に腕相撲で真剣(ガチ)に負けてしまった僕は何も言えなかった。嫁は逆で風邪はよく引いたりするが羨ましいほど筋肉がつきやすい様である。

しかしながら、確かに弱い。脚と足にの怪我は数え切れないし、さる腕だし、しかもクズと来ている。嫁にはよくこわい人に絡まれたら、全力で逃げるように日常的に指示されており、一番身近な人から見ても強さが見て取れないことは分かる。

ここで自分の怪我遍歴を棚卸ししてみようと思う。自分の身体の弱さを再認識しようというわけだ。

小学4年生のとき右足首ひねって泣いてからというもの、高校生の時にバスケットボール部に所属した時をピークに社会人になってからも足首を中心として往々にして痛めてしまっている。嫁からは手長ザルなどと不名誉なあだ名をつけられ、初心者向けのヨガ教室で腰を痛めたりもした。松葉杖も3回はついた記憶がある。

しかもアホな高校生だった僕は、多少足が痛くても部活をする事を優先していたのだから呆れる。高校3年生の冬、大学生になる前には、実は右足首の靭帯が1箇所切れてる事が分かり、アホな僕は手術もリハビリもすることなく過ごすわけだが、大学時代も事あるごとに足首をひねったりしたため、運動後は必ず痛み、段々と慢性的なものに変化し始めた。

そして今、外反母趾、足首痛があり、その影響で膝が痛くなったりすることもしばしばである。

ざっと覚えているだけでこれである。しっかり治さなかったことが今の生活にも悪影響を及ぼしていると考えると、後悔する部分も多い。タイムマシンがあるのなら高校生の自分に徹底的な休養とリハビリ、メンテナンスを勧めたい。それと、好きな女の子には振られるからしつこく告白したりしないように言っておきたい。

坊主頭の馬鹿な高校生には休む事さえ難しかったのかもしれないが、懸命な人には未来の事も考えて若い時からしっかり治療やメンテナンスに勤しんでほしいと思うばかりだ。

業界の逝く先

なんてわかるはずがない。僕はやさぐれIT戦士なんだけれども、数年前にやれなんだーかんだー流行ったものは今は当たり前になっていたり、見なくなっていたりする。濁流で、激流なのがIT業界だ。IT業界への不満は別で書くとして、何かと流行り、と言うものが存在していて、こう有れば良いよねみたいな指標のハードルの移り変わりも激しく、高い様に感じている。

今日は会社で目標設定なるものの説明があった。その仕組、内容自体は手が込んでいたし、論理的でもあった。

ただ、こう言った人事評価的なものは往々にして違和感が生まれるし、その正しすぎる論理性に嫌気が差したりもする。自己啓発本の様な違和感だ。

その内容の肝となるのが「あんたは何がしたいのか」なのであるが、これが僕にとってはかなり難題なのである。聞いた感じ新卒の入社試験時に聞かれそうな事であるのだが、そこは嘘を嘘で固めた日本の就職活動では、それっぽい事を言っておけばそれなりになる(なった)のであって、この年で真面目に考えるともう嫌になったりするレベルの議題なのだ。

因みに、前職でもこの手の目標設定みたいなのがあったのだが、「それ、違うよね」だの「(こっちは責任取らないけど勝手に)やればいいじゃん!」等と言われ、何か結局は会社の方針にフィットしないと「やりたいこと」は捻じ曲げられるという経験をしている。

まあ、会社の意向に沿う度合いにも依るだろうが、少しは必要な事位は理解している。ここ最近、加齢臭を疑われる位には大人だ。

そんな事を経験したからだろうか、そんなもんは僕は「会社が(責任持って)やって欲しいこと言えばいい」と真面目に思っている節がある。本当にやりたいことをやっている、もとい、やりたいことがわかってる人なんてそんなにいるのか。

少し考えて、しいて言えば「何もやらなくていい」のが仕事においてやりたい事かもしれないと言う答えに落ち着いた。

今回も嘘の目標設定をする事になる。

クズかよ。

クズ界のエースとしての自覚

おじいさんが電車でソニー製テレビのカタログを熱心に見ている。僕はその熱心な姿が気になり、横から覗き込む。覗き込み過ぎたのか、おじいさんは気になるようだ。僕はすみませんと謝り、継続して覗き込んだ。迷惑なゴミ野郎である。

僕はしたたかに酔っていた。

その日僕は結婚式の二次会にお呼ばれし、若い二人の門出を祝い、いい気持ちで三次会にも参加した。三次会の記憶は余りない。馬鹿である。

誰かと昔の事をぶり返して少し言い合いになった。その人は先に帰った。何故そんな事をしたんだろう。きっと自分の思っている事を思った通りにしたい等と思ったのであろう。
あとは馬鹿なことを繰り返していたに違いない。自分の言いたいことを周りの迷惑も考えず、ゲスな事や、人を馬鹿にしたような事を言っていたに違いない。その場所で1番生きている価値が無いのは僕だったに違いない。

クズである。

この手の経験には過去にも身に覚えがあるし、思い出す度に自分を消したくなる。消えてなくなりたい。

飲物や食物の味なんてこれっぽっちも覚えちゃいない。

去年辺りから、ホントの話で人は何故生きているのかと考えることがある位、困った子羊ちゃん的メンタルをこじらせている。当然、答えなんてないし、毎日生きていくしかない。自分のクズさにガッカリしたとしても、明日は来るのである。

クズが治らなくても、清く正しく生きたいなどと思っているわけで。

やっぱり、
クズは酒は飲まないほうがいい。
クズはお祝の場でもきっちりお祝いしたら、さっと帰ろう。
クズが呑むお酒はありません。

よし、今日からはドブ川クズ男として生きていこう。

猛省。

ランニングについて。

この一年ほどランニングをしている。
正確には2014年10月から、今でも細々と、やる気の濃淡はありながらも走っている。

最近は単純に走ることが好きになっている。ただ、この感じが本当にいわゆる「好き」と言うものなのか、実は自分でもわからないという不思議な状況だ。
走り始め、最初はあり得ないほど苦しかった。自分が想像していた半分も走れない自分に愕然とした。時には脚や、腰を痛めたし、古傷である足首が痛くて、日常生活に支障をきたすこともあった。

それでも休み休み、自分のペースで今も走っている。この文章を書いている現在は風邪をひいているため、外に走りに行けないが可能なら今日でも走りたい。

走り始めたきっかけは2つある。1つは運動する機会を確保したかったからだ。当時は少なからず自分の身体が鈍り、学生の時には想像できなかったフォルムに仕上がりかかっていた。運動できる服とランニングシューズがあれば、いつでも1人でできるランニングはお一人様性分の自分には至って向いていた。低いコストも続けることに一役買っている。もう1つは当時の仕事で、僕の性格が心配性である事に気付いた人事畑の人が運動や、瞑想を勧めてくれたからだ。心配性なことが更に心配性になるほどに心配性をこじらせていた僕は早速運動しようと考えた。以前はよくバスケットボールをやっていたが、人も物も必要なので、始めるのが簡単な走ってみることにしたのであった。

今のところ、自分にとって走ることは性にあっているようである。しかし、学生時代を思い出すと何も突出して上手でなかった僕にとって、長距離走は得意なものであった事を思い出した(注目されたりするほどではないとしても)。

もしかしたら、とても性に合っているのかもしれない。

転職して4ヶ月後の今。

僕はこのところ暇で仕様がない。猫も杓子もお呼びでない。会社に行っても仕事がない。

2015年の年末辺りにブラックIT企業を辞めて、(多分普通で)それなりの規模があるIT企業に転職した。前職は業務内容や方針に不満もあったし、新しいことに挑戦したいという気持ちもあったが、平たく言うとブラック企業の待遇、ビジネスに未来を感じることが出来なかった。業務過多で顔色が悪く、太り、耳からよく分かんない汁がただれるマネージャーの姿が忘れられない。

転職して、一年の3分の1が過ぎた。

先日、ようやく配属先が決まるまで、別部隊のお手伝いをしていたが、ようやく配属が決まったと思ったら暇なのである。最近の業務は主にネットサーフィンであることは秘密である。

おまけに部署が決まらず、業務もふらふら他のことをやっていたせいで、仲間等がほぼ出来ないという二重苦。

予定されている案件はお一人様派遣業務の(たぶん)三重苦(たぶん)。となっている。

ブラック企業に勤めていたせいか、仕事が無いと不安になる。20代の時に仕事がない時は不安すぎてチビリそうであった。

流石に30歳を超えた今なら、インターネットだけの業務の日もあるよね~と、大らかに捉えることも出来る様になってきた。

ただ、そろそろ仕事自体したくなくなってきた。

ワードローブについて。

個人のもので、手を付けやすいものといえば、やはり服(ワードローブ)ではなかろうか。個人的なものだし、他の人から勿体無いと単純に言われることもない。主に嫁のことだが。

早速、自分の持っている服をリストしてみる。半年程前にいくらか処分していたので、残したものはそれなりに厳選されているはずだ。

結果、多い。思ったより結構多い。世のミニマリストブロガー彼等彼女等と比較すると多いのだが、比較対象が良くない可能性もある。(迷走)と言うか、あの人たちの頭がおかしい可能性あるな。(失礼)数が目立つのはTシャツやら、スポーツウェア、靴下、下着、帽子なんかで、数えるのを諦めてしまった。全部で60か70と言ったところだろうか。

何より考えなければならないのは、自分の生活だろう。

まず僕はサラリーマンである。ビジネスカジュアルとかいう超曖昧なルールの敷かれた会社に勤めてるがゆえ、日常的に着る服はある程度縛られる。シャツやら、ジャケットやら、チノパンなどは基本着ないといけないし、これは完全に僕の責任なのだが、ビジネスカジュアルだと色んな場面を考えるのが面倒なのでスーツを着ることも多い。休日もビジネスカジュアルっぽい格好すれば問題にはならないかもしれないが兎にも角にもある程度数が要る。

もう1つ、僕は運動をやるようにしている。こればっかりはビジネスカジュアルでやりたくないので持っておきたいところである。

あと、至極当然なのではあるが、季節が存在する。ミニマルだからって極端に薄着で、冬に寒い思いをするのはあんまりだし、何より体調崩したりするのは好ましくない。

最後に、ワードローブと言うより、ワードローブに関わる生活的な部分だが、小まめに洗濯する事が肝要だろう。週に1回の洗濯では下着とシャツを7セット持つか、A面B面ひっくり返すか、の思わしくない選択を迫られることになる。

少し減らすイメージができてきたかな。小分けにして減らせるか検討してみよう。